大崩のあのトンネルが崩壊!
 2007.06.12.UP これはすでに廃棄された、旧東海道本線の”旧石部トンネル”で新に起きた崩落の実態です!
かって東海道本線の静岡−焼津間にあった、2つのトンネルのお話・・! ご覧いただけましたか?
その・・ ”石部トンネルで、新たな崩壊が始まってしまったのです!
 なお前編 ”街道で出あったトンネルたち”へはこちらからどうぞ・・ また追補版 ”大崩のあのトンネルは今!”こちらから!
場所は この辺り 旧国道150号線の大崩の途中です、なお現在の「石部トンネル」は地図上では1本の線ですが、上下別々で2本あります。
 5月25日: 新たな崩壊があり、これはその直後の「石部トンネル坑門」のお姿です。 
この日、崩落が起こったのは焼津側(神戸側) :上り腺側の坑門です、一部残っていた下り側坑門も巻き込まれて一緒に崩落?

 :全景です、以前の状態と比較して見ると!     (全ての画像はクリックで 900x600pixel に拡大します)
 5月25日、午後8時頃に崩落これは
 約2週間後の現地の画像です、
 崩落したのは山側上り線坑門と
 半分残っていた下り側の坑門です

 上を走る旧国道150号線は無事だが
 足元が崩れなんとも危険な状態だ
 この辺りから石部トンネルまでは
 なぜか?某社の私有地だそうです、
 その為に満足な護岸工事も
 なされないまま荒れ放題で放置
 されているのはなんとした事か?
 本来は、静岡市の管理範囲じゃ
 ないのかな〜?
:崩落後・・(2007/06/08 撮影) :崩落前・・(2006/08/11 撮影)
 近づいて見ると、崩落による土砂は
 波打ち際に落ちている下り線坑門
 の赤レンガブロック
も押し出した様だ
 ブロック全体が石垣側へ、山側の
 ブロックが海側へ移動して周辺は
 案外さっぱりしていた
 ブロック周辺は瓦礫で埋まっている
 今回の崩壊前は、堆積していた
 土砂は綺麗に洗い流されて石垣
 や赤レンガの肌は綺麗になった!
 レンガ片も波に揉まれて角が取れ
 丸い石ころのような姿になったりで
 ここまでの時間を経過を思わせる
 状態だった・・
:崩落後・・ (2007/06/08 撮影) :崩落前・・ (2006/08/11 撮影)
 :上下線の坑門・・ こんな惨状が!
 崩壊の惨状は、この画像をご覧下さい、、100の説明より、、一目瞭然! なんともおいたわしい・・
悲惨!少し離れて全体を見る 海側渚から坑道の正面方向を 坑道の正面、、瓦礫の上から 坑道の正面方向からからUPぎみ
 坑道の正面下から見上げる 海側 赤レンガブロック上から 元の排水溝に覆うかぶさる様に 残った坑道が妙に整列してるなー
 :下り腺の坑門・・ こんな惨状に!
:崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落前・(2006/08/11撮影) :崩落前・(2006/08/11撮影)
:崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落前・(2006/08/11撮影)
:崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落前・(2006/08/11撮影) :崩落前・(1948/9以降撮影) :崩落前・(2006/08/11撮影)
 :上り線の坑門・・ こんな惨状に!
:崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落前・(1948/9以降撮影)
:崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落後・(2007/06/08撮影) :崩落前・(1948/9以降撮影)

 ご覧の通り、、すでに下り線側の坑門は半分が崩落、崩壊は始まっていて、下り線の坑門の足元が波に侵食される状態が続きながら
 も、なんとか平静を保っていたのですが・・
 おそらく、残っていた下り腺坑門半分下まで、食い込んだ侵食された地盤が、、
当日降った大雨で水分を含んで、、耐えきれず
 上下の坑門下の地盤ごと崩壊した様に? と見えます!が・・

 
とにかく行ってびっくり! 見てびっくり! の惨状で、、 なんともおいたわしい、これからどうなるのか?心配になってしまった・・

 ここからは、前編に続くよもやま話など。。
 石部トンネルは明治21年、東海道本線の静岡-焼津間の2つのトンネルの1つとして完成し・・ 明治22年の東海道本線の
 全線
通開業以来

 昭和19年までの55年間、文明開化〜戦後を担う大動脈たる鉄道トンネルとして平穏に供用されていたのだが、、
 その昭和19年、ここを通過していた東海道本線が、弾丸列車用に新しく出来た日本坂トンネルに付け替えられて、
 役目を終えたところから・・ 思わぬ事態に遭遇する!
 余談です? 弾丸列計画が台頭! これが波乱の種だったのですから・・ 無関係ではありません、
 本編のお話とは別に・・ 昭和15年頃に持ち上がった「弾丸列車(標準軌高速幹線鉄道)計画」・・ なんと海を渡って東京〜北京・・を
 通り越して・・
 ベルリンまで延ばそうか!! という・・とほうもなく壮大な計画だった!
 戦時需要もあり、増大する旅客移動/輸送量の拡大要求・・
 がぜん現実味を帯びてきた計画!これが我が
「石部/磯浜トンネル」翻弄の始まりで・・
 昭和15年(1940)09月
 夢の弾丸列車?
 「弾丸列車計画」(広軌幹線鉄道計画)!!
 あのSL・・ D51の生みの親:機関車設計の天才「島秀雄氏」の・・ まずは東京発・・ 北京行き!
 一度位はお聞きに
 なった事がおありでは? えっ!眠っていた記憶・・ しっかり呼び覚ましてしまいましたか?
 昭和16年(1941)08月
 波乱の始まり・・
 「弾丸列車計画」の工事が開始され、工期のかかる「日本坂トンネル」(2.2km)他の掘削工事から
 着手された・・ 同時に着手されたのは
 :新丹那トンネル(8.0km) :新東山トンネル(1.9km)いずれも、後の東海道新幹線へ引き継されれる
  ことになるのですが!
 ライバル?「日本坂トンネル」! 
 天才・・ 島父子の夢は!意気盛んな太平洋戦争中に、実行され、
 早くも昭和18年、には先の「石部トンネルの北側」に1本で上下線を収容した問題?の 
「日本坂トンネル」が完成した・・
 弾丸列計画が中止!
 ところが戦況の悪化により「弾丸列車計画が自体が頓挫して、あえなく中止」されてしまった!出来たての「日本坂トンネル」 は行き場を
 失って無用のトンネルと化した!が、これを東海道本線へ転用されることになって.. 現役の我が
「石部/磯浜トンネル」は失業のうきめに・・
 お話はこの辺りから少々ミステリーゾーンに踏み込みます・・ 汽車はここまで磯浜トンネルと石部トンネル間の平らな大崩海岸を走りますが
 その後の道のりは決して平坦ではなく、様々な時節、紆余曲折に見舞われて・・ 最後には 悲惨な結末が待っている事に・・!
 大崩海岸の線路が、一般道路に?! (磯浜/石部トンネルは失業状態?)
 昭和19年(1944)10月
 路線敷が道路に?
 行き場がなくなった「日本坂トンネル」へ「東海道本線」を通す事になった・・ こうなると今度は「磯浜/石部
 トンネル」が、空きトンネルになってしまう・・ でもあの地は有数の沿岸交通の要所なので! 放置は不可
 そこで両トンネル区間の
線路敷を利用して一般道路に転用! なんと線路敷が”道路”になった!
 あろうことか! 明治22年以来・・ 55年間も続いた、東海道本線の要所路線を、日本坂トンネルに奪われた・・ 「石部/磯浜トンネル」!
 なんと「一般道路に転用」されて、以後は泣く泣く! 道路としての余生を送ることに ・・
 線路を取っ払って平らにし、
”汽車”ではなく、人や自転車、オートバイにリヤカーそれに自動車が・・ 自由に往来していたのです!
 さっそく県道:静岡-川崎線(今の榛原)(後に国道150号線へ昇格)の小浜地区の内陸経由の新道ルート、として供用?

 当時の生活道路は、古くは海岸を、後に大崩海岸の崖の上を通っていて、大雨や台風の旅に崖崩れ、交通止めの常連だったから。
 鉄道トンネルとしては”失業中”の石部トンネルではあるが、この地区は急峻な山に面しているため崩壊のない安定した生活道路が望まれて
 いて、これ幸いと生活道路用のトンネルとして、路線バスやトラック、リヤカーに自転車などの往来に供用されていた・・
 しかし、石部トンネルと相棒の磯浜トンネルにとっては・・ これも平穏な運命ではなかった・・ このあたりから波乱が始まった。
 石部トンネル、の崩壊が始まった!
 アイオン台風の被害で、旧石部トンネルの焼津側、海側坑門(下り線側)の半分」が大崩海岸へ崩落してしまったのが更なる波乱の始まり・・
 昭和23年(1948)09月
 坑門が崩落した!
 来襲した「アイオン台風」で、一般道路として使用中の「石部トンネルの大崩海岸側の海側坑門(下り線)」が
 崩壊した!
 もっとも道路転用当初から海側(下り側)坑門は使用していなかったが、これ以来..そのまま捨て置かれる事
 にもなった!

 昭和34年(1957)04月
 返り咲き!
 「東海道新幹線計画」がスタート、幻の弾丸列車計画の夢を果たすべく、
 戦時中の半強制買収済みの用地を引継いだ!
 専用トンネルは「東海道本線」で現役の「日本坂トンネル」を転用する事を決定!
 
こうして石部/磯浜トンネルは再び鉄道トンネルとして表舞台へ戻る事になったのだが・・・
 「旧石部/磯浜トンネル」は、大改修される事に・・ 
 晴れて出戻り? とはいえ「旧石部トンネル」は坑門の一部が崩壊していたし、他の海岸に近い部分も侵食が激しくそのままでは危険な
 状態だった!
そこで「石部トンネル」は静岡側坑門から進入、大崩海岸へ出ず「旧磯浜トンネルの一部を経由し直接小浜坑門へ至る」
 新たなルートの新トンネルを約160m山側の位置に、掘削して今度は切れ目がない、1本のトンネルにする・・
 ちょうど大崩の海岸路線をバイパスするように通す・・ あわせて海岸路線の弱点であった崩落や海岸侵食を回避・・
 また、古くなって開口面先が不足していた、トンネル断面を大きい貨車に合わせて拡張する等の新しい方針に沿って、改修工事を開始!
 大崩海岸の4つの坑門が消えた!
 この「出戻り改修」は、最もセンセーショナルな出来事です、大崩海岸の線路敷も、4つの坑門も放棄 される事になった要因だから!
 捨てられたのは!:大崩海岸の海岸路線、その後の度重なるがけ崩れにも、ノータッチ、更なる崩落で哀れな結末へ・・!
 :旧磯浜トンネルの静岡側の2つ・・ 旧石部トンネルの焼津側の2つ

 :旧「磯浜トンネル」坑門は崩壊していないが、「廃棄」され 後に民間に払い下げて、無造作に埋め立てられる、きっかけになった?
 すでに崩壊している:旧「石部トンネル坑門はそのまま廃棄」する・・ これが悲惨な石部坑門をさらす始まりになりました
 昭和37年(1962)
 大改修完了!200
 「磯浜/石部」トンネルの改修が完成、1本もののトンネルに生まれ変わった!
  が、同時に大崩海岸を走る路線部と4つの坑門は廃棄!されることに・・
 役目は新石部トンネルに譲って・・
 改修点は以下の通り、かなり大掛かりなものですが、結果からみれば当時としては最も合理的な工事を行った事になりますね!
 「新・石部トンネル」は山側に寄せたつなぎ目のない新ルート1本に変身した・・この段階で
 「磯浜トンネル」という名前は消滅
新しい東海道本線は東海の名勝と詠われた、大崩海岸を通らなくなった・・これはなんとも残念!
 この結果、竣工当時から存続しているのは・・ 静岡側(石部)と焼津側(小浜)の双方の坑門と、坑門に至る本体の一部分のみに・・
 こうして昭和34年(1957)04月の新幹線のスタートと同時に、それまで日本坂トンネルへ付け替えていた、東海道本線が旧ルート
 へ復活した、
 しかしこのとき磯浜/石部トンネルの2本に分かれていたトンネルの、東端と西端の坑門を生かして、途中は山中で掘り直して接続し
 た結果、
1本に統合された(^^ゞ
 竣工以来.. 大崩海岸を通るルートで対面していた
磯浜/石部の各々2つの坑門は廃棄された!

 このとき、すでに崩壊していた「石部トンネル焼津(磯浜)側の坑門」は、荒れるがままに放置される憂き目になってしまった・・
 道路時代の大崩海岸
 (東の端は「石部トンネルの焼津側坑門」から、西の端の「磯浜トンネルの静岡坑門」あたりまでを大崩海岸と呼んでいた)
 実はこのあたりは東海1の絶景といわれた景勝地・・ 断崖が続く前後の海岸には小島や岩場、大石が散在し、浜辺部分は護岸提に
 守られてちょっとした平野部と、のどかな風景と・・ それは見事な景観だったのですが ・・
 線路敷道路の東の端・・ 「旧石部トンネル」
 これが旧「石部トンネル」焼津(磯浜)側の坑門、そして線路敷道路・・ 貴重な写真です、
 なんとボンネットバスが走ってる! 当時、ここを私鉄(静岡鉄道)の路線バスが通っていたはずだが、
 という情報も得ていたのですが、正にその通りです!
 大崩海岸沿いのこの位置に 線路敷に使い得る充分な、平地があった事を示す貴重な写真です!
 なんと・・ 背景に石部の洞門(昭和18年竣工・後に崩落で押し潰された)も写っている・・
 これこそ捜し求めた1枚です。
 2つ並んだ坑門.. 後に崩落する事になる海側坑門もまだ健在!しかも杭柵で通行が遮断されているのが
 見てとれる! さらに、、山側のトンネル坑門だけに「わだち」があって!
 “上り線側だけ”で往来していた事も分る・・これなら後の海側坑門の崩壊後も、一時的な往来は続け
 られたに違いない!
 しかし.. ここは現在、瓦礫の海岸に変貌!
 焼津市史の「写真集 『やきつべ』 より
 :旧線路敷を走るバス :昭和30年頃:石田勇氏撮影」 :昭和30年頃とあるが昭和23年に坑門が崩壊! 以前の撮影?)(掲載認可済み)
 これが、今回5月25日に起きたの崩落直後の状況です、崩壊に
 よって完全に崩れ落ちた下り/上り線の坑門、最も最近のお姿です、
 
 山側に残っていた上り腺の坑門と、崩れかけて半分残っていた
 海側下り線の坑門がそっくり崩落しています、

 瓦礫は坑口前を埋め尽くしていた、ここは、レンガ塊などの瓦礫が少し
 あったものの以前は波で洗われてきれいな空間だったところです、、 
:崩落後・(2007/06/08 撮影)
 左は、今回の崩落前の写真ですが、このときは更に2つに割れて
 すでに波打ち際まで崩落しています!

 右は、昭和23年9月15日のアイオン台風で崩壊した直後の貴重な写
 真.. 割れて 傾いた石部トンネル焼津側下り線、坑門です!
 この時が最初の崩壊でしょうか?
 2つに割れて傾いているが、現在のように波打ち際まで崩落せず、
 この状態で一旦は落ち着いた様です・・
 上の今回の崩落後の状況と比べて見てください、過去の崩落による
 レンガブロックなどの瓦礫の上に今回の瓦礫が積み重なった様子が
 分ります、 また2つの大きな赤レンガブロックも少し押し出され、
 向きにも変化があります。
:崩落前・(1948/9以降 撮影) :崩落前・(1948/9以降 撮影)
 なお、右下の写真は焼津市史の 「写真集 『やきつべ』 より
 :崩落した旧東海道本線の :旧石部トンネル坑門 撮影年不明 八木秀也氏蔵」(掲載認可済み可済み)
 この下り腺坑門は今回の崩落前、すでにに波打ち際まで崩落しているが・・何時落下したのか? は、目下不明です、今のところ情報を見つけられませんでした!
 ここは幻の!「路線敷道路」の西の端です、この写真は磯浜トンネルの上から、石部トンネル方面を見た
 ものの様ですが
 線路敷はかなり広いく長い平地だった・・ 比較的なだらかな山腹と畑、海岸と護岸堤、元線路敷!
 まさに決定的写真だ!


 
なんと山の中腹に民家と、脇を通る県道(静岡-川崎線 :現在の国道150号線)”川崎”=”榛原”)が
 はっきり写っている

 この県道は土砂崩れで不通になることが多かったという、後ろに県道に続く石部の洞門が、遠くに
 日本平も写っている・・
 写真のお宅は当時は割烹旅館を・・ 現在は同じ位置で、レストラン&喫茶店を営んでおられます・・
 後にそうとは知らずにまったく偶然に訪問して、ご主人にお会いし..びっくり!謎が一気に解ける事になる!
 とはつゆ知らず・・
 写真の下方向の突き当たりが相棒の「磯浜トンネル」静岡側坑門の位置になります、
 しかし
今は埋め立てられて永眠中?
 焼津市史 「写真集 『やきつべ』 より :鉄道敷の道路:昭和29年7月 鎌田茂氏蔵」(掲載認可済み)
 :偶然のしかしもっとも衝撃的な出会いの場でした!!
 あの日・・このあたりを探索していて・・
 なんと!上の写真の道路脇に写っていたお宅にたどり着いた!

 写真を見たご主人..一声!あれっ!写真のこの家は・家だよっ? と・・あの瞬間は忘れられません!
 これには、両方ともびっくり! 懐かしい!と仰って、ご家族までお出まし・・ たちまち昔話を!
 ご主人ともども、ご家族はあの頃からずっと、、こちらににお住まいという・・
 当時は割烹旅館を営んでおられたと言う、


 ここまでの爺の謎はすぐにスラスラと、あっさり解けてしまった! 喉から心臓が飛び出すほど感激・・
 至福の時間だった!

 以来、通れば..必ず立ち寄る、崖上のティールーム、思えば全くの偶然の出会いから始まったのですが!

 石部トンネル、の波乱は続いていた?
アイオン台風の被害で、旧石部トンネルの焼津側、海側坑門(下り線側)の半分」が大崩海岸へ崩落してしまったのが更なる波乱の始まり
 昭和23年(1948)09月
 坑門が崩落した!
 昭和23年に..来襲した「アイオン台風」で、
 一般道路として使用中の「石部トンネルの大崩海岸側の海側坑門(下り線)」が崩壊した!
 もっとも道路転用当初から海側(下り側)坑門は使用していなかったが、これ以来そのまま捨て置かれる
 事にもなった!
 石部トンネル、またも波乱が?
 平成19年(2007)05月
 坑門が再々崩落?
 折からの大雨で水を含んだせいか?「石部トンネルの大崩海岸側の山坑門(上り線)」が崩壊した!
 もっとも、ここはとうに廃棄されそのまま捨て置かれてきたので!
 ニュースになるような被害!はなかった様だが・・
 やっぱり悲劇の大崩海岸 相棒の旧磯浜トンネル坑門に続いて、旧石部トンネル坑門までも、、いよいよ消滅してしまうのか?
 坑門はさて置くとしても、ここを土台とする、上の旧国道150号線が危ない! 放っておいたら今度はこの「生活道路」が崩落してしまう、
 元々このあたりはちょっとした大雨でも崩落を繰り返し、て通行止めになる事も多く、現在は日本坂トンネルの北側に
 新日本坂トンネルを設け、国道150号バイパスを新設済みである、
 しかし、いまや必須の生活道路たる旧国道150号線を守る為に、浜辺部分を擁壁で守ろうとすれば、両坑門はコンクリートで
 塗りこめられるは必定かな!
 そうなったら・・ 今度こそ、石部トンネル坑門(磯浜側)も永久に姿を消すことになってしまうのか? しかしいまや救う手立てはないのか?

 明治から大正・昭和から平成へ・・ 日本の歴史を担った偉大なトンネル達の、、現実の姿がこれ・・ 
 仮にもここは・・ かって日本の大動脈!
 いくつの人生、どれだけの物資が、このトンネルを、往来したことか、数え切れまい!

 文明開化の日本にどれほどの恩恵をもたらしたことか・・ 計り知れません!
 それなのに.. こんなぞんざいな仕打ちで良いのでしょうか?部外者ですが・・ 無性に腹が立ってしまいました!
    今の日本人って(自分を含めて)こういう..人や物への感謝の心・・? 何か忘れていると思うのですが・・
 じゃ、何が出来るのか? と問われると困るけど・・?

 長時間、御覧頂きありがとうございました・・ 最後に御礼と お約束です! これだけは守って下さいね・・
 当ホームページの著作権はホームページ管理者に帰属します、トップページへは、リンクして頂いて結構です、
 下記にご連絡を頂ければ幸いです。

 すべてのページの写真を含む一切の転載や直リンク等、同類のいかなる行為も堅くお断り致しますどうぞご承知おき下さいませ。
 なお、<(写真集『やきつべ』より:xxx>の表記がある3枚の写真は、焼津市発行 :市史写真集 『やきつべ』 からの転載です、
 従って著作権等の諸権利は各々の所蔵者殿に帰属し、かつ『やきつべ』の編さん/発行元である焼津市 「市史編さん室」殿の管理下に
 あります :当然ながら、無断使用を厳禁致します。
 また、当ページでは「市史編さん室」殿、並びに、各々の写真の「所蔵者」殿の承諾をいただいて、これらの写真を掲載しています。
 また、「市史編さん室」編さん/発行による焼津市「市制五十周年記念写真集」『やきつべ』を、本編の有力な 参考文献として活用させて
 頂けた事を 深く感謝致します。
 本編は、出来る限り正確に記述しているつもりですが、学術書ではありませんので、思わぬ誤記や間違い等も含まれていると思いますが
 どうかご容赦願います。
 ここはどうなったの? こんなのあるよ! 等のご質問、ご案内、ご要望、ご感想等、是非トップページの「森の掲示板」に、書き込んで頂ける
 と大変ありがたいです。
 ※お願い!
 本編関連の写真を探しています、磯浜/石部トンネル竣工当時、又は現地、磯浜界隈の写真を所蔵されておられるか、又は在り処を
 ご存知の方が居られましたら
 どうぞお教え下さいませ、連絡先はトップページの「森の掲示板」または下記へ、どうぞよろしくお願い致します。
 ※ご注意
  :本編及び写真機の森に掲載された、情報(文章/写真画像等)は、著作権の対象となり著作権法により保護されます、
  無断で複製・転用を厳禁します。

  :上記確約の目的で、このページへの無断直リンクを禁止します、 ただしトップページリンクからの案内誘導は承認しますが、事前にメール
  にてご連絡下さい。
  :なお、本編、あるいはホームページへの、お問い合わせなど、御座いましたら
                                     こちら、管理人まで、ご連絡を 頂ければ幸いです・・
 takagi@ps.sakura.ne.jp

このお話の原点 :古代の街道 :諸々のトンネルなどのお話は・・ こちら にあります、かなりの重複がありますが・・